掲 載 一 覧 最 新 号
第58話「4畳半の一生
 10年1日という言葉があるが、私は開業してから約50年、人生の半分以上を開業医として生きて来たことになる。藤沢市という狭い地域、しかも自分のクリニックの診療ユニットの脇(約4畳半の広さ)から離れる事なく生活している私の生活圏は哀しいほど狭い。
 
 私とは対極的に世界を飛び回って事業をしている知人も多い。その内の一人(医師ではない)に、「矢野さんは世界の経済事情をどうお考えですか?」、と質問された事がある。「自分の家の家計簿も知らない私に、世界経済の事など分かるはずはない」、と返事をして失笑されたことがある。然し、それが真実だ。
 先日、慶応の医学部の同窓会があり、級友達が近況を語りあった。
同級生(約80人)はその8割近くが大病院に勤務した後、医学部長、大学病院の教授、大病院の院長、大学関連病院の医長等の要職を経て、現在は悠々自適の生活をしている者が多い。同級生で開業医生活の道を選んだのは数人しかいない。その中でも開業当初と同じペースで黙々と診療を続けているのは私一人だけのようだ。
学友の一人は、アメリカの病院で研修した後、戦禍の中近東で診療した経験もあるという。
 
又、学生時代同じグループだったY君は、某大病院で名外科医としての名声を博した後、日本病院協会会長となり、今では、健康医療戦略室長(内閣官房内)として医政でも活躍している。
更に加えるなら、同級生ではないが慶応医学部出身で最も広い世界を見ているのは、宇宙飛行士の向井千秋氏だろう。何しろ向井氏は1984年に無限に広がる宇宙から地球をみたのだ。
 

作家の司馬遼太郎氏は宇宙飛行士をうらやむ気持ちを、“井戸にひそむ痩せ蛙のひがみ根性”、と自虐的に述べている。井戸ではないが私の世界も4畳半でしかない。
然し、“4畳半の生活圏”にも、開業医としての喜びはある。多分、何人かの患者さんは私の存在を必要として、感謝して下さっているだろう。そう言い聞かして自分なりに充実した平凡な日々を送っている。今後も、生ある限り矢野耳鼻咽喉科という名の「テント」で同じ生活を続けるだろう。そして、そのテントは娘二人が継承し、存続される事が約束されている。

   アラブの格言(曾野綾子氏著)より引用
 (今回の余話には、二カ所に文豪の言を拝借した)
         2014年8月1日
矢野耳鼻咽喉科院長  医学博士 矢野 潮